昭和五十七年二月六日 朝の御理解

x 御理解第七十九節 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」


 商売人が売場買い場が一番関係の深いものであるように、一番関係の深いものを大切にする、という事、を売場買い場というふうにおっしゃっとられます。だからこれは商売人だけの事ではない。私共の、いうなら生活の現場でね、一番、いうならば近い関係の人、一番関係の多い人を、ね、誰も彼もというわけにはいきません。ですからそれをやはり売場買い場を大切にするように大切にしていかなければなりません。ここにも、人が十銭で売る物は八銭でこう売れ、と、目先は二銭損のようでも数が売れるからその方が得じゃ、と。
 これは何処までも私は人の信用だと思うですね、人の徳、いやああっちの店は品物が確実だ、と。しかもよそよりも安い、同じ買うならあそこで買わなん、これは人の信用ですよね。商売人はいうならお客さんの信用を受けれる事が第一なんです、ね。だからそこまでは信心があってもなかっても、ね、同じなんです。ところがね。私は、教祖様がこのように教えておられるのだから、ね。売場買い場を私の方は大切にしております。生活の現場で、今の教主様は生活の現場という事を言われますよね。
 いわゆる生活の現場で、自分に関わりのある人達をいよいよ、ね。売場買い場を大切にするように、大切にしていく。人の、いうならば信用、人徳がついてこないはずがない。ね。だからこのように教祖様が教えておられるから私共の人間も変ってくるし、言う事も行う事も段々変ってくる。ね。それは教祖様のみ教えを実験するからである、ね。そこから私、あのう実証していく、という事は、ね。神様の御信用がついてくる、と思うです。
 これは、だから、ね。良い品物を安く売る。はあ、あそこは安い、あそこは確実だ、と。これは人の信用です、ね。けれどもなかなか打けません、ね。人が十銭儲かる時には十一銭儲かりたい、という事がやっぱり私共の根性の中にはあるわけ、ね。それをなら、一銭でも二銭でもよそより安くする、という事はやっぱり難しい、けれども教祖様があゝ教えておられるから、と教祖様の教えを忠実に守る、という意味でそれを行ずる時に、人のしんようだけじゃなくて神の信用がついてくる。
 いわゆる神徳、人徳が頂ける、という事になるんですよ、ね。なかなか、ね、神様の仰せ通りに仕えっとる、というてもそこには、ね、神様の仰せ通りに仕えつればこういう、その、心に確信、というか、信念の確立が出けるんだ、という稽古を絶えずしなきゃいけないです、ね。そして、今、こんなふうで風邪具合が悪いですから、もう咳が出る、水鼻がもう、御祈念中なんか兎に角、このちり紙がスタスタになるぐらい、下にこう透けとるから、一時間、こうやってしておりますから、したら昨日ね、紙を出してここにこう、拭こうとしたら神様がz「紙を使わず神を使え」って、大変厳しいお言葉で頂いたです。
 紙を使わず神を使え、と。こげな所にまで神様を使うちゃ勿体ない、という事はないですね。本当に、あのう、御祈念中に、いうならば、ね。それこそ水鼻でスタスタになるようじゃ神様に御無礼だけども、そんな事、紙を使わず神を使え、とこうおっしゃる、ね。それからまあ、それこそ、ね。こわごわながらその事を御願いさせて頂いたら、昨日から御祈念中だけは水鼻が出ないです。神様がね、私はもうほんなこつ、…本当この神様ばっかりは不思議な神様じゃある、と思いますばい。
 ところがね、んなら、例えばなら、休んでおろうが御結界についておろうがですよ、それを願わせて、なら、御神前で願っとるような願いが出来るか、というと出けないです。只ね、んなら鼻水がスタスタ落つるから落ちてんごつお願いします、というような事でも、ね。神様にお願いが出来るんだけども、只んなら、願いさえすりゃよい、という事がわかりますね。
 私が、なら朝の四時から、まあ神様の前で一時間余がこう座らせてもらいます。これは、ね、私の、いうならば命と神様の命が交流しよる程しの時間なんです。そこにはもう、いうなら一心不乱とはこの事だ、と、私は自分で思うです、ね。だからその一心不乱の時に願うからおかげになるのです。ですからん、なら休んどる時でも御結界ついとる時でも、なら水鼻が出らんごとお願いします、と言うてもいいんだけれども、願うからにはそこに真がならななきゃならない。一心がなからにゃならん、乱れちゃならない、ち言う事なんです。不乱、ね。
 私はね、そりゃもう昨日の内田先生、ですか、のお話を皆さんも頂かれたように、この事だけは神様にお願いしなければならない、この事はもう自分でやる、というような事ではなくて、もう全てが神様へお願いをしなければおられない、というような意味のお話をなさっておられましたが。だからどんな事でもいいですけれども、願うからには真がなからなきゃならん。一心がなからなきゃならん、という事です、ね。
 それが何かやはり大きな問題かなんかなら、一心不乱になれれるけれども、まあ鼻水が出る位な事はなかなか、ね。一心不乱になれないけれども、丁度私が一心不乱の中にある御祈念の中ばの事だから、それが出けるんだ、と、こう。だから神様は聞いて下さるんだ、というふうに思うです、ね。商売をするなら売場買い場というて、とこう。だからこれはまあ商売に対する御理解ですけども、なら商売じゃない、ね。
 何をするにしてもなら、今の教主様のお言葉を借りると、それぞれの生活の現場で、という事です。自分に関わり合いが出けてくる。自分に密接な関係ある人とか事柄というものをいよいよ大切にしなきゃならない、ね。しかもそれは一心を貫かなければならない。自分の都合の良い事は大切にするけれども、都合の悪い事は、いわゆる合で言われる成行きを尊ぶ、とか、大切にする、という事はこんなにも大変な事につながる事だという事を、今日また改めてわからせて頂く思いが致します。ね。
 ですから、私共の生活の現場で、なら合理念に基づいて人にも接し事にも物にも接していく。そういう生き方をすれば必ず人の信用はついてくるに間違いありません。いやああの人は確実だ、あの人は間違いない、という事になってくるでしょう、ね。それをなら私共が成行きを尊ぶという事。合楽で言われる成行きを大切にせ、これは教えなのですから、その教えを行ずる事に一心に、私共が貫かせて頂く事に、です。神様の御信用がつく、という事がわかりますね。
 目先は損のようでも、ね。数がよけい売れるから、とこう、ね、数がよけい売れる、という事は、信心がなかっても安売ったり確実な品物を売れば売れる事間違いないけれど、ね。その売れる、という、ならあのう、よけいなら数が売れるから儲かりはかえってその方が多い、という答えも出てくる、と同時にです、ね。そういう私は、おかげこそが教えを行じて、そこからよけい売れる、というおかげ、そのおかげに神様の御信用がつく、というのですから、残ったお金ならお金に神様の、いうならば信用というか、ね。それに裏付けがぴしゃっと出けるところに私は、信心の、ある者とない者の違いがあると思うんです。ね。
 信心はなかっても、です、ね。本当にやっぱ思い切った商売をする人がありますよ。私共の事汚い者の、ね、私。商売根性じゃなくて、本当によそよりも二銭安く売る、よそよりもいい品物を売る、そしてもう本当に卸先やらお得意さんを大事にするという人があるんです、やっぱ。やっぱ繁盛しますです。ね。けれどもね、繁盛しまして、…。昔、あの、福岡に松屋というデパートがあったでしょうが。この人なんかの生き方がこれでした。けれどもほら、神様を信用が、裏付けがなからなきゃ、それで確かに人の信用もつくし繁盛もするけれども、ね。けれどもやっぱしまえる時にゃしまえる。天地の裏付けがないからですよ、ね。
 私共も、な、教祖様があゝ教えて下さるから、それを頼む、一心に。又、それを守る。そこにいうなら神様の御信用がついてくるんです。そしていよいよまあ信心というのは神様を信じて疑わない、ね。いうなら信念の確立を願っての事ですから、どうぞ皆さんもささいな事でも願わにゃいけませんよ。ところがささいな事であると、どうしても願いがおろそかにな、どうでんよかやら、のなん、があるわけですよね。
 私はあのう、いつも思うんですけども。ちょっとなら親教会なら親教会に出ます時、私は必ず御祈念をさして頂くんですけれど、ねえ。あれを、御祈念もなあにもせんな行ったり帰って来たっちゃ御礼にも出てこん、子供達が毎日出ますけど、ね。ようあげなこつが出来ると思うくらいに、また、なら皆さんでもそうです。ちょっと久留米まで行かなんけんよろしゅう、ち言うごたる風にもう、まあ立ちながらお願いするような人はなかけども、そんな感じで言うて行かれる人がありますけれども、私はそういう時ほど真剣に神様にお願いするです。
 ほ、お願いして行ったばってん怪我してとなんてんち言うならどんこんされん。だから本人がそげなふうでざあっと願うならやっぱり取次者は本気で願わにゃおられません。問題は本気で願うという事です。それはどういう事、それこそ水鼻が出るほどしのものでもね。本気で願うという事です。そこで一心をもって願う。そこから成程この神様はこういう事にまでお働き下さる神様だなあ、という、ね。
 もう、どんな零細な事からでも、又どういう大きな事でも神様のお働きが頂ける、という心のまあ確立ですね。そこに初めてこう、限りない信心の確立が出けていくのじゃないでしょうか。これは今日の御理解は商売人に対するですけども、それを同じ理ですから、教主様が教えられる生活の現場と仰せられますから、私共の、生活の現場で、売場にも買い場にも等しいような関係がいくらも出けるんです。
 そこを大切にしていく、という。いうならば実意さが、ね、いると思うんです。しかもそれは、ね、一心を持っての大切にする、と、ね。それぞれの生活の現場をいよいよ大切に、あろそかにしない、大切にする。最後に、ね。身体はちびるものではないから、と、働くがよい、と仰せられるところなんか、もうまあ、これで決まってくるわけですよね。どんなに良いここでこうこうしとったっちゃ、その、一生懸命働かなかったらね、おかげになりません。それを私は修行、と思うのが信心だと思うですね。どうぞ